昨日と似た雰囲気で。
人は、自分の好む分野において、それが好きであればあるほど、オタクとかヘンタイとかフェチと言われることを好む。
「○○って、ほんと✕✕オタクだよなぁ」
これは、○○からすれば、褒め言葉に近い。まして、相手が自分のオタクっぷりに肯定的であれば、水を得た魚のように、その「MYオタク」を全面解除し、褒めてくれた(と思い込んでいる)相手に言葉の絨毯爆撃を浴びせる。
人によってそのオタク分野は様々で、どういう人生を歩んでそんなところに行き着いたんだ、という様な分野もある。だが、そんな人のオタク全開ブログは、読んでて楽しい。
私は、オタクというレベルには到達していないが、ひとつ、フェチがある。
線路の「ポイント」である。
線路が分岐する、あのゴチャゴチャした部分である。
これは、人生を歩み、積み重ねた経験から得たフェチではなく、直感的なもの、そして生まれながらに備えた自らのセンスによるものだ。
なぜなら、母に手を引かれてヨチヨチ歩く生後数年という頃から、私はポイントが好きだった。
その頃に住んでいた町の駅には、近所の工場への引き込み線の「廃線跡」があった。
ちょうど分岐のところが、駅舎へ渡る利用者の為にコンクリで舗装されており(おそらく以前は踏切だった)、そこを渡るたびに、ポイント部分を踏みしめるたびに、ゾクゾクしていたものだ。
そして、電車がポイントを通過する時の音をリズムも完璧にボイパで再現できるようになり、小学校に上がった頃には、ポイントを絵で表現出来るようになった。暇な時には、「ぼくがかんがえたさいきょうのポイント群」を妄想で描いていたものだった。
今でもこのフェチは続いていて、暇な時に、ひたすらポイントを通過する電車のYouTube動画を見ていたりする。ポイントをしっかりクローズアップした動画は、なかなか探すのが大変である。
だが。
大人になる、というのは悲しいものだ。
私は、なぜ自分がこんなにもポイントが好きなのか、という、自己分析を始めたのである。
線路、レールというのは、よく、人生に例えられる。親の敷いたレールに~…とか、レールから外れると~…とか。
そんなレールに愛着を感じる自分は、おそらく保守的で、むしろ敷かれたレールの上を歩む事に意義と安心を覚えるタチなのだと思う。変化を嫌い、永遠に続くと思われるレールの上を、ひたすらにコトコト走り続けることが、本当の自分が望むことなのだろう。
しかし。
レールももちろん好きだが、私が特に好むのは「ポイント」である。
ポイントは、先述した通り「分岐」であったり「交差」である。
ここに特に強い愛着を感じるのは、どういう心理なのだろう。
分岐した線路は、基本的に行先が違うので、分かれた後にまた合流することはなく、私が右を選ぶのであれば、左に分岐したレールは、そのまま見えなくなっていき、私が見たことも聞いたこともないどこかの町で、終点を迎える。
交差するレールも、どこか私の全く知らない場所からやってきて、やはり私の知らない場所へと消えて行き、やはり私が全く関与しないどこかの町で、その進行を止める。
それら分かれていったレールは、私が知らないところで、過酷な山越えをしたり、美しい海岸沿いを走ったり、右に曲がったり、左に曲がりながら、個性的な文化を持つ町を抜けることだろう。
そんな、自分の知らない、関与しないドラマに、ゾクゾクする何かを感じるのかもしれない。
いざ、ポイントをこの足で踏みしめたのであれば、各方面に伸びるレールの彼方を見つめてしまうのも、そんな思いの表れかもしれない。
先述した、幼少の頃に踏みしめていたポイントは廃線であるが、例えるならこれは「誰かの人生の跡」である。少し先で、ぶっきらぼうに断ち切られているレールに、生後数年ながら、既に終わった人生の、ひとつの形を見たのかもしれない。
つまり、私はポイントが好きで、レールが好きなのだが、その実、人やその人生が好きなのである。